フクが生きた記録(3)

3章 トライアル初日

いよいよ。トライアル当日の日が来た。スタッフの運転する車で出発だ。

友子さんの膝に抱かれて一時間くらいのドライブとなった。トライアルって何なのかも分からないので不安でたまらない。

「ともちゃん、幸せになろうね、ただ、焦らなくて良いんだよ、幸せはゆっくり探そうね、一週間して迎えに来たときに嫌だったら一緒に帰ろうね」

ギュと抱きしめながら言ってくれる。トライアルってお試しだと知ってほっとした。

そうは言ってくれても置いて行かれたあとに虐待を受けたらどうしよう、不安で胸が引き裂かれそうだ。そんな気持ちで車に揺られていると「着いたわよ」とスタッフの声が聞こえてきた。

「着いたよ、さあ行きましょう」

 友子さんは私を抱いて里親さんの家のブザーを押した。

「は~い」

 明るい女性の声がした。

「お待ちしていました」

その女性は先ず私のことを見た。

「ネットの写真と変わらないわ、可愛い」

 そう言って私を抱こうとした。

「ちょっと待ってください、突然だとおどろくのでお家に入ってから抱いてあげてください」

 友子さんは抱いたまま家の中に入った。里親さんに挨拶をした。その間中、里親さんは私から目を離さないでいる。

「こんにちは、私は葉子ママです、よろしく、本当に可愛い」

 うっとりしていうるように見えた。

「どうぞ、抱いてあげてください」

「ウワ、嬉しい」

 両手を口に当てて感激している。そして私を抱いた。

「うわ、軽い、半年前に亡くなった同じボストンテリアは九キロあったのですがこの子は凄く軽いですね、何キロですか」

「六キロです」

「そうなの、痩せているんだね、苦労したのかな?」

優しい笑顔だ。

「この子で三代目です、ですから飼うことには慣れていますのでご安心ください、このような保護犬を飼うのは初めてですけど、先代犬たちが夢枕に出てきて言ったんです、「ぼくたちと暮らしていたママさんはすごく元気で明るかったのに今のママさんは寂しそうで見ていられない、だから不幸な境遇で生きてきた犬たちを僕たちにしてくれたように幸せにしてあげてよ」

 これだけ言って二匹は消えてしまったんです」

「そんなに、クリアーに夢枕に出てきたんですか?」

 半信半疑の友子さんはたずねないわけに行かない様子だ。

「信じていただけないかも知れませんが……」

 友子さんの心の内は直ぐに悟られていた。すると葉子ママさんはその場を立ち去って先代犬の写真を持って戻ってきた。

「この犬たちなんですよ」

 懐かしそうに説明を始めた。

「こちらがラブラドールレトリーバーのチッポで十二歳の時に癌で亡くなりました、この子は温和しくてとても良い子だったので近所の老人ホームでアニマルセラピー犬として二年間勤めあげたんですよ、皆さんにとても喜ばれて大歓迎されていました、でも、病気が分かって辞めさせてもらったんです、盛大なお別れ会までしていただいて」

 懐かしそうに写真をなでて目が離せないようだ。その様子を見た友子さんが助け船のようにこちらの犬は、とボストンテリアの写真を指さした。

その言葉に我に返ったママさんはごめんなさい。と言って次のボストンテリアのノラの話を始めた。

「この犬は心臓が悪くて六年間、薬を欠かすことはありませんでしたけど十四年間生きてくれました、チッポが亡くなってペットロス症候群にならずにすんだのはノラのお陰なんですよ。

そのノラも亡くなるともう寂しくて毎日が曇り空のようで気分が晴れなくて仕事もなかなか進まず困っていたんです、そんなところに夢枕の出来事があったんです」

「そうそう、お仕事は何をなさっていらっしゃるんですか、お見受けしたところ、お一人暮らしのようですが?」

 友子さんは確認していなかった事に気がついて質問した。

「申し上げなかったかしら、失礼しました、私は翻訳の仕事をしているのでほとんど家で過ごします、ですから犬との時間は充分取れますのでご心配なく、ただ、一人暮らしですけど、ダメですか?」

 ママさんは少し不安そうに私を抱きながら言った。

「いいえ、そんなことはありません」

 それを聞いたママさんは私をギューと抱きしめてホッとしたようだ。

ママさん、友子さん、スタッフさんたちは施設のはなしや、保護犬や保護ネコたちが心の傷を持っていることなどを話してトライアル一週間と言うことで帰って行った。

いよいよママさんと私の二人きりになった。優しい人だろうとは思っても友子さんたちが居なくなれば本当のところ分からない、と正直恐怖も感じた。するとママさんがそんな私の気持ちに気づいたようだ。

「大丈夫よ、安心してね、ほら、ここがあなたの居場所よ」

 そう言いながら部屋の隅にイチゴ柄の可愛い犬ベッドが用意されていて、そこに降ろしてくれた。

「ここでゆっくりしてね、私はソファーにいるから」

 ママさんはソファーに座って本を読み始めた。その姿にさっきまで私を抱いていたのは可愛がる振りだったのかと疑問を持ってしまった。こちらに来たのが二時頃、友子さんたちが帰ったのが三時頃、今からどうなるんだろうとママさんをベッドの中から見つめる。

一時間以上ママさんは私の方へ目を向けない。やっと、本を閉じた。そして大きく伸びをして私に近づいてきた。

「ごめんね、放っておいたんじゃないのよ」

 ここでも見抜かれていたようだ。

「実はね、友子さんに、最初は緊張するからしばらく一匹にしてあげてくださいって言われていたの、だからわざと無視していたのよ、ごめんね、辛かった? 私も辛かったよ」

 にこにこしながら私を抱いてくれた。この女性は友子さんの居たときと変らなかった。

「夕方だから、散歩に行ってみようか」

 嬉しそうにリードと首輪、ハーネスを持って戻ってきた。

「可愛いでしょ? あなたのために選んでおいたのよ」

 ニコニコしながら私に着けてくれた。そしてリードを二本付けられた。

「あれ、二本も嫌だな」

 本音はそう思ったけど反発はしなかった。それはボスのところで嫌と言うほど経験していたので決して逆らうことはしないのだ。首輪とハーネスにそれぞれリードをつけるダブルリードが、不測の事態に備えて私やママさんの安全を守るものだということをあとで知った。

トボトボ玄関まで付いて行った。

「歩けるかな?」

 門をガラガラと開けると外の世界だ。からだがすくんで歩けない。

「あら、ダメ、施設では歩いていたって聞いたけど施設の庭だったから怖くなかったんだ、無理はしないでゆっくり慣れていこうね」

 理解してくれているようだ。外はいろんな音や人の行動が怖くてたまらないのだ。例えば、車のクラクションだ。あの甲高いブーブーと言う音はボスがブリーダー小屋に戻ってきたときにわざとならしていたのだ。きっと、私たちに俺はここに居るからな、とでも言いたかったのかも知れない。

それから走ってくる人も怖いのだ、棒を持って凄い剣幕で走って私たちを殴りにくるように見えて仕方ないのだ。町の人たちは私には関係ない所へ行くのは分かっていても体が動かなくなるのだ。こういうのをトラウマと言うらしい。

こんな私の様子を察してママさんは私を抱き上げて町をぶらぶら歩いて今日の散歩は終わりだった。この人は本当に優しいのだと思えた。その日はもう私に何も要求しなかった。可愛い器に入れてくれた柔らかくふやかしたドッグフードを食べてイチゴのベッドで初日はゆっくり寝ることができた。

翌朝のことだった。

「おはよう」

 ママさんの声で目が覚めた。よほど深く寝入ってしまったのだろう、物音一つ気がつかなかったのだ。こんなことって今までには絶対にないことだった。保護施設に居るときでも友子さんたちの足音だけでも気がついていたのに、昨日来たばかりの、知らない家なのにどうしてなのか自分でも分からなかった。

ママさんの声に目を開けると私の前にしゃがみ込んで言った。

「よく寝ていたね、私がそばまで来ても気がつかないんだから、よほど疲れていたのね、それとも我が家を安心していられる所って思えてくれたのかな、だから熟睡できたのかしら、そうだと、うれしいわ」

 にこにこしながら私を抱きしめてくれた。きっと、私もそうだったんだと思う。そうでなければいくら疲れていたって犬ですから物音や気配で必ず目を開けるはずだから。

「朝の散歩に行きましょう」

 ママさんは昨日の私を知っているのにどうして今日も、朝早々に散歩に連れ出すんだろう? 優しいと思っていたのは私の勘違いかと思った。でも逆らうことはしない、首輪とハーネス、リードを付けられてトボトボ玄関までついて行った。すると驚くことがあったのだ。

「このバギーは先代犬が使っていたものだけど今日からこれに載って町をぶらぶら散歩しましょう」

 私をバギーに乗せてくれたのだ。

「乗り心地はどうですか?」

 バギーの中できょとんとしている私に話かけてきた。

これってどういうふうに動くんだろう、そして私はどうしていたら良いんだろうと不安だった。

「さあ、行きましょう」

 玄関を開けて外に出た。勿論私は乗っているので歩くことはない、高い位置から見物といった感じだ。町中を自分の足で歩かなくてすむ散歩なのだと安心した。

そう思うと目は右、左とキョロキョロして落ち着かない。

「おもしろいでしょ、これに乗っていれば怖くないからね」

 ママさんはやっぱり優しい人だったんだ、さっきは申し訳なかったと思った。

「おはようございます、久しぶりね、新しいわんちゃん?」

 近所の犬仲間らしい人がママさんに話し掛けてきた。

「昨日、来た犬なのよ」

「成犬でしょ、バギーになんか乗せないで歩かせないの?」

「外が苦手なので慣れるまでしばらくこれでお散歩なのよ」

「へえ、どうして外が苦手なの?」

「色々苦労してきたからね、慣れるまでしばらくはこれで出てこようと思って」

「保護犬ってこと?」

「そうよ、それが?」

「いや、別に、成犬からじゃ大変でしょう、なついてくれるのかしら」

「そんなことは心配していないわ、愛情さえあれば大丈夫」

 ママさんは犬仲間さんに少し腹を立てているようすだ。家に戻ると成犬だからって何よねと私を抱きしめてくれた。

一週間が過ぎて友子さんたちが迎えに来た。

「この犬との相性はいかがでしたか?」

 「良好です、ぜひ私に引き取らせてください」

 ママさんは真剣に頼んでくれた。友子さんたちも私の様子から大丈夫と判断して今日から正式にママさんの家族になることができた。(続く)

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